高橋康徳について
投稿日時:February 02, 2007 / 12:00 AM 投稿者: 高橋康徳■幼少期~テレビ局への就職活動
皆さんはじめまして。高橋康徳と申します。
僕は、1972年に宮崎県延岡市という田舎町で生まれました。海と山と川の大自然に恵まれた故郷・延岡で成長した後、高校卒業と同時に広島大学理学部化学科に進学しました。
大学卒業には5年間かかりました。専攻は化学(Chemistry)でしたが、大学3年生の頃に知り合ったオーストラリア人の放送作家ヴォーンに強く影響を受け、「自分もテレビ局で働く!」と意志を固めました。
そしてテレビ局への就職活動を開始しました。
時は1995年。あの、阪神大震災や地下鉄サリン事件が起きた大混乱の年でした。僕はどうすればテレビ局の人に自分を気に入ってもらえるか?と考え、自分の専攻だった化学の知識とニュースで持ちきりだったサリン事件を組み合わせてこういう話をしました。
「サリン事件に関するテレビや新聞の報道は、いたずらに恐怖を煽ってばかりに見えます。自分が記者だったら、化学の知識を活かして、もっと視聴者の役に立つ情報を流したいです。例えば、サリンは水をかけると簡単に加水分解する物質ですよ!という感じで・・・」
そんな感じでテレビ局の役員面接で力説した結果、なんとか福岡のフジテレビ系列のテレビ西日本という会社から採用していただきました。
■テレビ局時代
テレビ西日本(通称TNC)には1996年4月から2004年3月までの8年間お世話になりました。TNCには本当に心から感謝しています。僕はこの会社で社会人としての基礎とその後の力をつけさせていただきました。
テレビ局時代の8年間は一貫して「報道記者」という仕事に従事してきました。記者の仕事とは、「事件や事故の現場にカメラマンと直行し、警察や消防・目撃者などに取材し、情報をまとめて、アナウンサーがスタジオで読むための原稿を書く」というもの。さらに時には、現場からリポートや生中継をすることもあります。
配属直後から、ガルーダ航空機の離陸失敗・炎上事故や、対馬沖のタンカー沈没・重油漂着事故、鹿児島の大地震、台風19号、そして数々の悲惨な事件や事故を取材しました。2003年の民主党大躍進の総選挙や鳥インフルエンザ、SARSなども担当しました。8年間で担当した記者クラブは、福岡県警、福岡地方裁判所、福岡高等裁判所、同小倉支部、北九州市警察部、北九州市役所、福岡県庁。合計約3000本のニュースやドキュメンタリーの原稿を執筆させてもらいました。
■転機-911テロ取材
2001年9月11日。アメリカで、911同時多発テロ事件が発生しました。
当初は「テレビの向こうの出来事」との認識でした。ニューヨークだし、ここは福岡だし、現地の記者は大変だろうけど、まさか自分が数日後にその場所に行くことになるとは、夢想だにしませんでした。
しかし、運命のめぐり合わせが起きたのです。
テロの3日後、当時僕が勤務していたTNCの北九州支社に本社の部長から電話が鳴りました。
「高橋、ニューヨークに行くか?」
「・・・・・・行かせてもらえるんでしたら」
「よし、荷物まとめて本社に上がって来い!」
「はい!」
短いやり取りでした。この時の僕の心境はというと、決して平常心ではありませんでした。しかし、NOという思いはありませんでした。身の危険や恐怖も確かに感じましたが、それよりも、「あの、歴史に残るであろう現場を、この目で直に見て来たい!」という、記者としての本能みたいな感情の方が勝ったのでした。その中で1つだけ申し訳なかったのは、妻に何の相談もなく現地行きを決めたこと。NY行きを告げた時、彼女は僕の身を心配して泣いていました。
こうして僕はFNN系列の現地のヘルプ記者としてニューヨークへと派遣されることになりました。テロの5日後でした。そして、このNYでの2週間が、僕の人生を変えることになりました。
現地入りした僕は、マンハッタンの西側に設置されていた被災者救済センターの取材を命じられました。日本人被災者の関係者は一様に取材に応じていただけない状況だったため、僕たちはアメリカ人の誰かが取材に応じてくれないかを当たることにしました。そんな中、今回のテロで最愛の夫を亡くした40代の女性が取材に応じて下さったのです。ジェシカさんという、ユダヤ人の女性でした。
聞くと、ご主人はWTCビルの最上階にあった「Window of The World」というレストランでソムリエとして働いていたそうです。そして、残酷なことに、テロの起きる前日の9月10日こそ、この夫婦の結婚記念日だったというのです。「こんなことになるんだったら、2人でもっと盛大に最後の夜を過ごしたのに・・・」彼女は涙ながらにその無念さを語っていました。
「たった1日で、私の人生は、全く別のものに変わってしまったの」
その言葉を聞いた瞬間、僕の中に、それまで意識したことのなかった事実が浮かび上がってきました。それまで自分が漠然と抱いていた、「健康さえ守れば、自分は60歳か70歳までバリバリ働いているだろう」という未来の根拠の希薄さに気づいたのです。目の前にいるジェシカさんは、元気だった夫を、ある日突然失い、自分の人生までもが大きく変わってしまったのです。
「命の儚さ」という言葉は知っていましたが、それに僕は生まれて初めて、リアルに直面したのが、この時でした。こうして僕は、自分の未来について、真剣に考え始めたのです。
「人生は一度きり。報道記者という仕事が、自分の天職なのだろうか?」
職業観について、来る日も来る日も考えて、考えて・・・そんな日々が始まりました。
■自分の仕事を振り返ってみる
自分がこれまで作ってきたニュースは、事件・事故・災害・テロ・不祥事など、その大半は世間の暗い(ネガティブな)情報ばかりでした。先輩たちからは「事件・事故といった硬派なニュースこそ、記者の醍醐味だ!」と教えられていましたが、どうも自分には、それら"硬派なニュース"を一生かけて追求していくイメージが沸いて来ませんでした。
一方で、僕自身が、心から楽しく、誇りに思えた仕事が1つ、ありました。それがドキュメンタリーというものでした。確固たる志を持って頑張る人の努力の日々に密着し、ドキュメンタリーとして番組化する。そして、その番組を見た視聴者が元気や勇気をもらったり、明日への活力が沸いてくる。という、ポジティブな番組作りにこそ、自分の魂を燃やせるフィールドがあるのではないかと感じたのです。
しかし一方で、
「テレビ記者という恵まれた立場を投げ捨てるなんてもったいない!」
という別の自分がいたのも事実した。さらには、
「ドキュメンタリーなんてコストパフォーマンスの悪い仕事で独立するのは無茶だ!」
と、先輩たちからアドバイスも受けました。この間ずっと僕は、迷い続けていました。
■7人の起業家との出会い
「独立するか?それとも、記者を続けるか?」
もう2年以上も迷い続けた2003年8月、僕の元に1本の電話が鳴りました。相手は大学時代のゼミの1つ上の先輩である堀さん。香港で独立してバリバリにビジネスをしている、僕より一足先に起業を果たした人物でした。誘いの電話でした。
「今度の金曜日に湘南に面白い奴らが集まるから、お前も来ない?」
唐突なお誘いでしたが、何か惹かれるものを感じた僕は湘南に向かうことにしました。平日に無理やり休みを取って、航空券を買い、羽田からバスで1時間くらいかけて、湘南まで行ったのです。このシチュエーション、普通に考えれば「断り」のような、今でもそんな気がしますが、当時の僕は何かを感じたようでした。そして、その期待通り、「事件」が起きたのです。
湘南。行った先は当時、若手書道家として注目され始めていた武田双雲さんのアトリエでした。そこに僕を含めて20代~30代の9人が集まってきました。面子を見ると、僕ともう1人、IBMの若手部長さんを除く7人が社長やフリーランスという経営者の立場の人たちでした。
資生堂を独立してオリジナル化粧品ブランドを立ち上げているショーコさん、元ホンダの中近東マーケッター村尾隆介さん、ニューヨークでビジネスをしている宮内さん、埼玉の酒屋の五十嵐さん、元グランパスエイトのトレーナー佐保さん、香港の商社マン堀さん、書道家・武田双雲さん。今考えてもスゴイ面子です。
そして、自己紹介が始まります。僕はその時、人生で初めての光景を目にしました。それは、社長と社長が出会うことで、瞬間的にビジネスが生まれていくという光景でした。例えば、南米事情に詳しい佐保さんがチリでバカ売れしているレタスクリームという商品を語ると、商社マンの堀さんが輸入しようかと言い出し、コスメ事情を知るショーコさんが「じゃぁ私が流通は・・・」といった感じ。サラリーマンの僕には全員がキラキラに輝いて見えました。
■独立を決意
僕の自己紹介の順番が回ってきました。
「高橋です。僕は福岡のテレビ局で報道記者を・・・(中略)・・・近い将来、ドキュメンタリーを作る作家として独立したいと思ってます」
その場の何人かが、即座に反応した。
「独立、すればいいじゃん!応援するから!取材のネタだったら、ほら、ここに大勢いるし」
心が揺れた。
「独立したい・・・こういう人たちと、ポジティブなドキュメンタリーを作って世の中を渡りたい・・・」
午後からは、武田双雲さんによる「社長たちへの書道教室」が行われました。参加者の面子といい、講師の双雲さんといい、非常にワクワクする内容で、僕は湘南を出る頃にはすっかり「ああ、こういう人たちとビジネスがしたい・・・そういう人生を歩みたい」と、独立のことしか頭にない状態になっていました。こうして振り返ると恐ろしいほど単純ですが、こうしたきっかけがなかったら、今の僕はないと思います。
そしてその夜、福岡の自宅に戻った僕は、興奮冷めやらぬ中、妻に双雲アトリエで撮影したビデオを見せながらこう言いました。
「こんな人たちとワクワクするようなビジネスがしたいんだ。独立を許してもらえないだろうか?」
それまで反対していた妻が、このとき初めてこう言いました。
「今までは心配で独立は正直気乗りがしなかったけど、この映像を見たら、なんだかやってみてもいいかな・・・という感じがするね。」
こうして僕の独立は決まったのでした。現在、僕は映像で企業や商品の良さを伝えて、共感買いしてもらうという仕事をしていますが、こうして振り返ると、僕はまさに自分自身の独立の最初の一歩目を、映像の力によって切り拓かせてもらったのでした。こうした経験があるからこそ、僕は自信を持って映像の力をクライアントの社長たちに勧めることができるのだと思います。自分自身の経験によって。
(※実はCOWTVの映像ライブラリーに蓄積された数千本の記録テープの中の、No.0001と0002こそ、この2003年8月22日日の様子を撮影したものです。もちろん、今も当時の記録が残っています)
■起業後、いきなり廃業の危機
2004年春。僕は自分の持っていた仕事について半年間の引継ぎ期間を経て、TNCを円満退社し独立しました。フリーランスのテレビ番組作家(ドキュメンタリー作家)として活動することに決めたのです。5月20日、スピンアウト有限会社(カウテレビジョンの事業母体)を法人登記し、いよいよ念願かなって起業家の道を歩み始めたのでした。
ところが、当然ながら独立への道は甘くなく、意欲満々の僕に対して厳しく険しい現実が突きつけられました。独立初年度に稼ぎ出した売上げは、わずかに、650万円。年商で、です。それまで「年収」で1000万円を超えていた自分にとって、信じたくないような現実でした。開業資金の大半を使い切り、いきなり倒産の危機に直面したのです。その原因は、今考えれば明らかに「僕自身の無知」にありました。
それまでテレビ局の記者という立場であれば「作っていれば誰かが売ってくれる」という立場でしたが、独立すると、「製品を作るのも自分、売るのも自分」という未知の世界だったのです。営業なんて大学時代の家庭教師派遣のアルバイトで少しかじった程度の自分が、いきなり1人で飛び出した世界というのは、裸でアマゾン川に飛び込むようなものでした。
■インターネットとの出会い
どんどん尽きていく資金、毎日感じるのは自身の無力さばかり。「このままでは倒産・廃業だ!」と焦る中、1つの出会いが僕を底なし沼から救ってくれます。それは、インターネットで映像配信をしていた「カタオカキカク」という、同じ福岡のベンチャー企業の片岡社長との出会いでした。
片岡さんは僕の映像を見るなりこう口を開きました。
「高橋さんのような人と会いたかったんです!」
聞くと、片岡社長はそれまでネット上での映像配信を試みていたものの、「自分の制作する映像は素人の域を出ない、もっとテレビ番組のような人の心に訴求できる映像を配信したい」と感じていたのだといいます。
自分の報道・ドキュメンタリー作家としての経験とスキルを最大限に活かせる場として「インターネットの映像」という新分野と出会ったのです。そして僕と片岡さんのタッグプレーが始まりました。
■そして今・・・
2005年2月、片岡さんの力を借りながら僕は背水の陣でカウテレビジョン事業を開始。「インターネットTV局運営と企業ホームページの映像コンサルティング」というのが事業内容です。まだYoutubeの「ユ」の字も世間に出ていない時期でした。周囲の心配をよそに、同年9月、そのビジネスモデルが評価され、福岡市主催ビジネスプランコンテストでグランプリを受賞することができました。
そこから徐々にではありますが、僕たちの商品に興味を持ってくださる会社が増え始め、今では福岡を拠点に120社500本超の企業プロモーション映像を手がけることが出来ています。
こうして自分の半生を振り返ってみると、いかに人との出会いが人生において貴重であり、それらの出会いのお陰で自分のこれまでの人生は展開してきたのかを実感します。
この文章を読んでくださるあなたとも、こうして人生で接点を持てたことは奇跡と言っても過言ではありません。ご縁に、心から感謝いたします。
最後まで読んで下さってありがとうございました。
(高橋康徳 株式会社カウテレビジョン代表取締役)
(2007年2月2日初版投稿/2009年3月11日プロフィール改定)
■その他の参考情報
1.COWTVの仕事について
2.採用・インターンシップ
3.COWTVの社内制度
4.このBLOGの趣旨
■信念みたいなもの ■恩人・仲間たち ■自己紹介 ■固定リンク ■コメント (2) ■トラックバック(1)
コメント (2)
ご無沙汰しております。以前、お世話になりましたマイマイスクール人事企画室の宮村と申します。
高橋社長のブログのプロフィールを読ませていただきまして、大変感激しコメントを入れた次第でございます。
人生とは本当にどこに転機があるのかわからないものですね。心に何か響くものがありました。
またお仕事で一緒になる機会がございましたら、そのときはどうぞよろしくお願いいたします。
突然のコメント大変失礼いたしました。お忙しいとは思いますがお体ご自愛くださいませ。
宮村さん、お久しぶりです。嬉しいコメントありがとうございます。本当、おっしゃるとおり人生の転機はどこに転がっているか分かりません。宮村さんとの出会いや、こうして数年経って僕のBLOG記事を偶然?見ていただきコメントもらうのも、そうしたことの1つなのでしょうね。またお目にかかることがきっとあろうかと思います。同じ福岡ですし。その日を楽しみにしています。